沿革のあらまし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沿革のあらまし

 当山は浄土真宗本願寺派に属して龍巖院丹和山法圓寺と称している。むかしは禅宗で小山村金山(現吉田町小山の山林)で永い星霜を経たと伝えられているが詳細はわからない。

 その後丹後の国の浪士善秀この寺に来て薙髪して俗名をそのまま法名として善秀と称した。天文2年

春(1533)善秀改宗して浄土真宗に帰依し、当山の開基となった。またこの年諸人の参詣の便をはかって、この竹原の地に一宇を建立して龍巖院丹和山霊山寺と号した。善秀40才の春であった。

 この年郡山城主毛利元就公は38才、そしてその第三子隆景が誕生の年であった。ちなみに、7年後の天文9年ならびにその後になると、毛利と尼子勢の合戦が相つぎこの地方は主戦場となり修羅の巷と化した。善秀6才の時本願寺では中興の祖第八世蓮如上人が遷化されている。

 いつの頃か善秀たまたま上京して本山に詣でたときのことである。時の門主は第十世証如上人であった。上人善秀を一べつして「そこなる異形の僧は誰ぞ」といぶかって問われた。「芸州の僧善秀にござりまする」と答えたという。善秀その頃長髪にして僧形に似ず文字どおりの異形の僧であったと伝えている。善秀、上人への帰依心厚く、上人また彼を愛して十字の尊号をたまわるの栄を得た。

 伝説によれば善秀が丹後から芸州へ下国の際に狐を伴に連れて来たという。近年まで丹後狐の穴というのが寺の裏の竹藪の中にあって、古老の言葉にもよく「丹後狐、丹後狐」と語りつがれていた。もっとも私の幼いころはこの竹原在は藪やら雑地が多く、夕暮れなど事実さみしい所であった。

 善秀は元亀2年(1571)78才で示寂した。第二世教誓、第三世浄心を経て第七世快圓の元禄7年(1694)本山の直末寺となる。

 第十四世諦念は呉の荘山田の沢原家から第十三世樹心を養父として入寺し、宗学の研鑽に努め明治8年学仏場の教師となり、同13年から31年まで進徳教校(崇徳高校の前身)の総監に推され、また同年本願寺司教に輔せられ、同36年本山の安居副講を命ぜられて「往生要集」を講じた。

 晩年寺に帰って学寮を設けて専ら宗学を講じて後進のため育英のことに尽瘁した。諦念は霊山寺の寺号を改めて法圓寺と号した。本願寺勧学職を拝命、明治44年79才で示寂した。

 前住俊嶺は明治22年住職拝命、33年間住職をつとめ昭和17年76才で示寂した。

 第十六世宝海は大正11年住職拝命、昨昭和57年満60年在任した。ことしは開基善秀がこの地に来って451年になる。その間、聞法の道場として無数の門信徒の尊い懇念によって歴史の荒波の中を法圓寺

は護持伝承されて来たのである。             <霊山宝海1983年記>

 

阿弥陀如来立像

 本尊はほぼ等身大の木像で、七百年の歳月すでに故人となった無数の門信徒の帰依礼拝の対象として尊崇された阿弥陀如来で当山の寺宝である。台座に「安弥陀」の銘がある。安弥陀は阿弥陀仏に深く帰依した鎌倉初期の代表的仏師快慶のことである。

阿弥陀如来立像

三菱窟

 

三菱窟(さんりょうくつ)安芸高田市指定文化財

 元治元年(1864)長州征伐に際して郡山山麓に浅野長厚公の陣屋が設けられていたが、維新後とりこわされることになった。第十四世諦念はその遺構の一部物見やぐらの払い下げを受けて寺内に移築した。ひし形三間の建物であるところから三菱窟とよび経蔵兼茶室に使用している。

老松を偲ぶ

老松を偲ぶ

 かつて境内には五本の老松が天空にそびえその英姿は遠くから望見されて法圓寺の象徴であった。二本は第二次大戦に船舶用材に徴用、三本は落雷で枯死した。伐り倒された大木は年輪四百数十を数え、ほぼ法圓寺の歴史と一致する。残骸の一部を記念に残して本堂の外縁に飾り労を謝した。当時の住職は涙しながらその銘を書いた。

 

老松を弔う

 風雪四世紀

 香台を護って歳久し

 ああ落雷の厄

  昭和五十四年

   第十六世宝海誌

 

山門

 門扉は元広島城の東門であった京口門の門扉を入札で購入したもので、現存する数少ない広島城の遺構である。明治17年ころそれに合わせて山門を建立した。総檜造り。

山門